楊柳山 十禅寺
開基人康親王 明正天皇祈願所

明正天皇ご祈願所 伊勢物語第78段ご由縁地

創建の頃

:開基人康親王のこと
平安時代の859(貞観元)年、仁明天皇第四皇子、人康親王(さねやすしんのう)を開基として天台寺門派の影響を多分に受けて創建されました。親王は伊勢物語第78段「山科の宮」に登場する山科禅師の皇子のモデルとされ、物語にも登場する安祥寺の一画を間借りし、聖徳太子作とされる念持仏聖観音を本尊として山科に隠棲したと伝わります。十禅寺再興縁起絵巻の序盤に描かれるシーンです。物語だけではなく、古文書「安祥寺資材帳」に法性という親王出家後の僧名があることから、山科に隠棲した仁明帝の四ノ宮は学識的にも認められる実在の人物です。
当初は現境内地より北、安祥寺下寺のあったあたりに山荘が営まれていたようで、京都市遺跡台帳には諸羽神社のあたりに「人康親王山荘跡」と記されています。母は藤原澤子、兄に文徳天皇、甥が清和天皇で諸羽神社は清和天皇の創建です。娘が藤原基経の正妻となり、忠平、師輔、兼家、道長と続く北家隆盛の先祖であることは意外と知られずまた息子らは源氏姓を名乗り官職を得て関東へ移り住んだ者もいます。

父仁明帝は雅楽に造詣深く、現代雅楽の礎を築いた人物として名高く、遣唐使 藤原貞敏を唐へ派遣し琵琶を習わせました。貞敏は「玄象」「青山」という琵琶を唐から持ち帰り、習ってきた琵琶の独奏曲「流泉」「啄木」「楊貴操」を宮中で披露、以降、貴族は雅楽器や琵琶を教養として嗜むようになりました。人康親王も琵琶を嗜んでいたと伝わり、十禅寺は、古くから琵琶ゆかりの寺として親しまれ、庫裡には江戸時代の「平家琵琶」や、本堂には小さな逗子に納められた「人康親王琵琶弾木坐像」があります。
長らく四宮家文書の『法性禅師 872(貞観14)年5月5日薨去』という説がありましたが、東福門院と後水尾天皇の娘である明正天皇が再興した際に納められた位牌には『壬辰歳九月単一日薨去』と刻され、872(貞観14)年9月1日に亡くなったとされます。
再興の頃

:中興紅玉真慶と堂宇宝物寄進明正天皇(退位後明正院)のこと

平安時代の世の乱れ、原平の合戦、応仁の乱、戦国時代の到来と繰り返す戦火の憂き目に遭い、長らく荒廃の一途をたどって、本尊も一所にはない状態でした。ようやく1600(慶長5)年、関ヶ原の戦い以降は、四宮村の旧郷士、冨田弘の隣家の天井裏に本尊が移され、そこに住む百姓に守られていました。江戸時代の初め1653(承応2)年、この百姓が紅玉真慶(こうぎょくしんぎょう または しんけい)に帰依、本尊を託し、庵が建てられ、細々とではあるけれども、寺として再興されることとなりました。このことが、十禅寺の運命を劇的に変えてゆくことになります。この当時の様子は、十禅寺再興縁起絵巻の中盤に、明正帝の使者が視察に訪れたくだりとして描かれています。

その2年後の1655(明暦元)年5月8日、明正天皇が三十四歳のとき霊夢をご覧になり、翌1656(明暦2)年5月19日には、按察使を遣わし金銀を散りばめた本尊の厨子を寄進されました。同年10月18日には、錦の御戸帳を寄進、その年の暮れまでには三間四面の本堂が建立されました。次いで3年後の1659(万治2)年には、薬師・地蔵堂、鐘楼堂、表門が建立され、本尊であった聖観音菩薩(二尺五寸立像長)は勅封の秘仏とする命も下されました。それ以降、開帳の都度御使の局を派遣され、開帳の料物なども全て寄進された記録も残っています。
明正天皇は、徳川家康のひ孫で秀忠の孫でもある天皇家と徳川両家の血を引く女帝で、父後水尾院からは、前例がないと婚姻は認められず、生涯一人を余儀なくされました。そんな心の拠り所となったのが、十禅寺に入った紅玉真慶でした。糞掃衣を纏い牛に乗った風貌の描写がなされたこともある風変わりな僧だったとも伝わります。
十禅寺への強い思い

この紅玉真慶に深く帰依した明正天皇は、1662(寛文2)年、自ら彫刀にも加わった不動明王や毘沙門天の脇侍仏2尊を施入、元禄6年には、晩年暮らしていた本院御殿の庭にあった柳の古木で、楊柳観音一体を彫らせ、施入されました。このとき明正帝は、これまで単に柳山(やなぎやま)と言っていた寺の山号を「楊柳山(ようりゅうざん)」と呼ぶよう改称されました。さらに1678(延宝6)年には「普門品(観音経)」と「随身求陀羅尼」いずれも58歳の時の明正帝宸翰を納経され、1689(元禄 2)年3月16日には、67歳になった明正天皇の宸翰「十禅寺」の題字(掛け軸)が寄進されました。このとき、明正帝のご意向によって、本山(聖護院)修験宗の寺となりました。その後、明治に至るまで聖護院は天台寺門派に属し、1826(文政9)年まで、歴代十禅寺住職は天台寺門(三井寺唐院)での伝法灌頂受法が習わしでした。
いよいよ、1695(元禄8)年5月25日「明正天皇御遺詔御書付(遺言)」が寄進され、「自分が崩御の後は、今住んでいる離宮御殿並びに安置諸仏は挙げてこれを十禅寺に納め菩提を弔うように」との約束を固く交わされます。この一連の再興の経緯や様子を後世に伝えようと、ずいぶん以前から山本素軒に描かせていた「十禅寺再興縁起絵巻 一巻」は、明正帝崩御のわずか3ヶ月前、1696(元禄9)年8月7日に完成し寄進されることとなりました。他にも和歌で綴った「十禅寺再興歌縁起」や、「天児(あまかつ)」「這子(ほうこ)」といった愛用のお人形に至るまで、生涯に渡って多くの什物・宝物を十禅寺に下賜されました。

行事・遺構・文化財

1697(元禄9)年の崩御後は、毎年11月10日に追善法要として「御斎会(ごさいえ)」が挙行されてきました。現在も11月3日に山伏による「採燈大護摩供勤集」が執り行われ、その意思が引き継がれています。
遺詔御書付に書かれた十禅寺に移すという明正院の晩年の住まいは、京極今出川にあった離宮御殿(御下屋敷)で、「得月台」と呼ばれました。明治から大正時代の間に惜しくもその御殿はなくなってしまいましたが、江戸後期に出版された「都名所図会」にはその全景が描かれ、十禅寺にもその間取り図が残っており、往時の風格をうかがい知ることができます。閣前にあった庭の敷石は「短冊石」と呼ばれ、今も庫裡横の庭に現存しています。

2025年、明正院が山本素軒に描かせた「紙本著色十禅寺再興縁起(国立博物館保管)一巻」に加えて、十禅寺にあったその下絵「附 紙本淡彩十禅寺再興縁起下絵 一括」が、指定のための調査で再発見され、併せて京都市の有形文化財に指定されました。 山本素軒は尾形光琳の師といわれる人物で、十禅寺を訪れ綿密に調査した上で下絵を起こし、さらに明正帝や周囲の意見も取り入れて完成させた経緯が、双方を比較閲覧するとよくわかります。残念ながら下絵は、部分部分で断片して、巻物としての形状を保てておらず、現在修理が必要な状況です。そこで、このたび、公益財団法人 京都地域創造基金運営の「文化財保存基金」を活用して、修繕費を募ることとなりました。みなさまのご支援を何卒よろしくお願いいたします。
URL発句 2020年7月 十禅寺 拝
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